「受け入れる」と「受け止める」は違います

 子供達は、だんだんと口が達者になっていきます。大きくなるにつれて、理屈っぽくもなる・・・ そうなると、自分の行為や論理を正当化するために、うまく話しを組立て、理路整然と話す事もあるでしょう。
 しかし、大人である親は、直感で(むー、確かに理路整然とはしているけれど、どこかが違う・・・)と気づきます。そんな時、父親も母親も、子供が大人びた理屈を通そうとしたからこそよけいに腹が立ち、「何だ!」ということになってしまうのです。
 そうかと思えば、すっかり身体も大きくなって弁も達つ子供に翻弄され、親としての権威も何もなく、何でもかんでも子供の言いなりになってしまう親もいる・・・
いずれにせよ、子供が成長してくると、親も真剣に関わっていかなければ、幼い頃のように小手先だけでは相手が出来なくなっていくものですね。

 先だってのバスジャック事件。16歳の犯人は供述の中で『お休みの日にドライブに連れていってもらいたかった、本当は行くって約束していたのに・・・』と話したといいます。
 青少年の凶悪犯罪増加のために、少年法が見直されている今日。犯罪を侵した青少年に対して、同情的に事件を捉えることは時代に流れに逆行し、ひんしゅくをかってしまうかもしれませんが、それでも私は、罪を犯した少年達が、そういう行為に至るまでの経緯、心の動きを思えば、かわいそうでなりません。

 親はともすれば、正論、正論で話しを押し進めていきます。親は正しいことを教えているのだから、真理を説いているのだから、一方的に親のほうが話し、子供には話すチャンスは与えない。中には、子供達の言い分を聞いてあげるだけの広い心のある、理解ある親もいるでしょうね。しかし、そういう親でも、ほとんどの場合、子供が話し終わるやいなや、「しかしおまえ、それは違うだろう!?」「何言ってるのよ、子供のあなたにはわからないだろうけど・・・」と、すぐに子供の言葉をピシャリとはねつけてしまう・・・
 これの繰り返しをすれば、そのうちに子供は口を開かなくなってしまう、ということは容易に想像できますね。すると、今度は、「どうして何も言わない!」・・・となる・・・こういうのを、空回り、悪循環、と言うのでしょう。

 どんな子供も、「親に愛してもらいたい!」と思っているのを知っていますか?
子供が幼い頃には「お父さんに誉めてもらいたい!」「お母さんに、スゴイわねって言ってもらいたい!」と素直にそういう気持ちを表現できました。口には出さなくても、「おかえりなさい!」ととびついてきたり、満面の笑顔で「行ってらっしゃい!」と言ってくれたり・・・ しかし、子供は大きくなるにつれて、素直にそういう気持ちを表すことに恥じらいを感じたり、照れてしまったりするようになってきます。それは当然の成長なのです。
 でも・・・子供達はあの頃と、まったく変わることなく、本当は両親に『おまえのことが好きだよ!!あなたはお母さんの宝物なのよ!!』と思っていてもらいたいのです。
 変わってしまったのは、親のほうではないですか?「立派な子供」「立派な青年」を望むあまり、指導的教育にばかり走り、「親として子供を愛する」気持ちを、忘れてしまったり、表現できなくなってしまったのではありませんか?

 子供が反発する時の言葉、子供が泣きながら必死に抵抗する言葉・・・
 もうそこには言葉はなくて、ただ無言で親をにらんでいる目・・・
子供に迎合するのではありません。子供の言い分を認めてしまうのでもありません。子供の言葉を受け入れてしまうのではありません。子供の言葉を、子供の心を、受け止めてあげて欲しいのです。子供が話した後に、「でも!」とすかさず言うのではなく、「むー、そうだね・・・」と、一度は受け止めてあげて欲しいのです。「そうなのか・・・おまえの、あなたの言い分はそういう事なんだね・・・それはよくわかったよ・・・でも、お父さんは、お母さんは、こんなふうに思うのだけれど・・・・」と、静かに、一度は子供の話しを、真剣に理解しようとして、受け止めてあげれば・・・きっと子供達も、(良かった・・・聞いてくれた・・・)と安心するでしょう。

 初めて子供が「おかあしゃーん!」って言った日のこと。
 入園式の日、緊張しながらも顔を歪めてにっと笑った時のこと・・・
あの日から、何日も・・・何日も・・・何日もたって、今の我が子がいるのです。あの日のあの子と、今のこの子・・・おんなじ子。